旧・望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター望月志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

発達障害があることをカミングアウトしない方が無難だ

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昨日の記事を書いた後で思った。

「自分が他人に抱かれる印象」について、気にし過ぎてこれまで随分振り回されてしまったなあと。しっかり過去形にできていればいいけど、マシになったとは言え、まだ道の途中なんだろうなとも思う。

 

 

発達障害があることを、隠しておいた方が無難だ。 

それは間違いない。

 

全ての人がそうだとは言わないけれど、世間の「発達障害者に対する印象」がやたらと悪い。無条件で人格否定されたりするし、現状だとカミングアウトしない方が無難。でも「実際の姿」や「発達障害者の中の多様性」も開示されないと益々「イメージ」で語られることになってしまう。

イメージを覆し、多様性を示すために、(言い方が悪いが)「サンプル」は多い方がいいけれど、サンプルになるには覚悟が必要で、どうしても偏見と闘うことが避けられない。1番厄介なのは外部からの攻撃ではなくて、内部からの攻撃だったりすることもある。

発達障害の有無に関係なく、一人一人がそれぞれにとっての大事な誰かに、優しく向き合って貰えたらいいのにな。自分の特性を家族に認めて貰えなかったり、その家族も消耗していて受け止める余裕がなかったり、なかなかうまくいかないもんだなあと思う。

私が少し前に話題になった「子どもガチャ」という表現を嫌だなあと思うのは、そういう背景があってのこと。「厄介な子どもを抱えて追い詰められたお母さんの悲痛な叫びだから」という理由で、親が子を「ハズレの子どもを産んでしまった」と認定することを肯定してしまうことの危うさ。

言葉の力を甘く見ている。

言葉はモヤモヤを概念化し、共通認識となって伝播されやすくなる。伝播しやすい言葉は流行になる。流行語になれば使うハードルが低くなる。言いにくいことを言葉にしてもらえることで、抵抗も軽くなる。

お母さんだって辛いが、そんなノリで外れ扱いされる子どもも辛い。

辛いのも分かるけれど、子どもをハズレ扱いしないであげてくれ、とは思うものの、過酷な育児に消耗しきっているお母さんに理想論をぶつけるのも違う気がして、何とも言えない気持ちによく襲われる。

 

「私だって辛いのよ」という理由で、他人を傷つけてもいいと考えてしまう人がいる。こちらがいくら言葉を選んでも、過去に発達障害者から被った恨みと共に、わたしに罵倒を浴びせてくる人がいる。

発達障害がなければ、それだけで人格的に優れているなんてこたぁない。

問題になってくるのは、発達障害の有無というより、「心の強さ」なんじゃないかと思う。心が弱く、自分自身の問題を、誰かを傷つけることで解決しようとする定型発達者(発達障害じゃない人のこと)もいれば、そうでない発達障害者もいる。

ただ、余裕がない。ゆとりがない。精神論や根性論で何とかなったら苦労はしないし、根本的に解決しようと思ったら、社会問題とか、政治の話になってしまうよなあ。

 

認知が広まる一方、何か事件が起こるたびに「犯人はどうせ発達障害者だろ」という人も増えた。「失うものが何もないため、犯罪に手を染めるハードルが低い」とされる、いわゆる「無敵の人」と呼ばれる人は、世間から爪弾きにされてしまった人。

実際、発達障害を抱えているケースもある。そんな中で名乗るリスク。

デメリットの方が大きいわな。

 

「発達障害であるかどうか」に、重きを置く人が増えている。

それも啓蒙活動のおかげなんだと思う。ただ、認知が広まることのデメリットも感じる。

 

いま、子どもに発達障害の検査を受けさせようと思ったらどこも数ヶ月待ち。白黒ハッキリつけることの必要性とは。診断の有無の重要度とは。ただ目の前の人間と向き合う事の難しさ。

発達障害者の間でも、 「診断済みかそうでないか」に強くこだわる人が多くいて、「自称ADHD」と批判されることがある。まるで格付けのようだし、重度であるほど偉いかのようだ。

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発達障害という診断が下りているかどうかって、そこまで重要なことなんだろうか。

 

診断がつくことで、自尊心の回復に役立つことがある。

診断がつくことで、肩の荷が下りることがある。

診断がつくことで、理解が深まることがある。

それはとてもいいことだ。

 

私はもしかしたら世間の主流からは外れているのかもしれないし、余計なことを言っているのかもしれないが、このブログで繰り返し言ってきたことでもある。

発達障害に個人差がある限り、結局のところは一人一人と向き合う必要があるわけだし、その人を理解するうえで、発達障害という診断が手がかりとして役立つこともあるが、偏見や決めつけ、誤解も避けられない。

「この人はADHDだから」と認識されてしまったせいで、先入観からその人の本質を見失う危険性もある。

「男だから」「女だから」というようなカテゴライズにこだわるあまり、相互理解から遠のくケースも世間には溢れていて、なんだかなあと思う。

 

「イメージ」や「印象」、「肩書き」で決めつけて語られることが多い現状。

「世間の印象」と闘うより、自分らしくあるためにはどうしたらいいのか考えた方が現実的だ。

だけど、自分らしくあろうとすると、「世間様の声」という困難に何かとぶちあたるのが、日本社会。

「世間様」という実態のないものに脅かされる日々も、なんだかアホらしくもあって。

それでも霧に向かってこうして吠えるのは、発達障害者へのヘイトを聞いた後でも「…でもそうじゃない、志乃さんみたいな人もいる」と誰かに思ってもらえる、いちサンプルになれたらいいなあと願うからだ。

話が少し逸れるが、だから私は、YouTuberのイメージ向上に貢献しようと尽力するヒカキンさんを尊敬してやまないのだな、と、朝から1人ごちるのであった。

 

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