旧・望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター望月志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

ADHD仲間や世間に迷惑をかけずに、自分らしさフルスロットルで生きたいという話

どうも皆さん、こんばんは。

この記事を書いている途中、コーヒーの入ったコップを派手にぶちまけました。

カーテン、点々、黒いシミ。どうも~~、ADHDで~~す!!!!

 

ここ数ヶ月、ぐっちゃぐっちゃ考え込んでしまって、ブログの更新が滞っておりました。

もうね、自分が何をしたいのか、誰のために何を、何のために伝えたいのか、見失ってしまいましてね。書きたい気持ちばかりが空転して、下書きを量産。

そうこうしているうちに、新鮮味が薄れて清書をする気もなくし。

あらやだ。何も公開できない。

そんな状態でした。

 

えーーい、ってなもんでね、ここのところずっと煮詰まっていたことを、半ばヤケクソぎみにツイッターに書き殴りましたので、それをそのまま掲載することに致します。

思考の垂れ流しで恐縮ではございますが、どんどこ進めてまいります。

 

「定型発達の皆さんも余裕がない」という現実

例えば私の場合、「極限まで手間を減らす」ことに常日頃から命をかけておりまして、アプリやらWEBサービスやら、省力のためのシステムを人知れず活用しまくっていたりします。

(※個人の感想です。)

私たちも定型発達の方々に対して、こちら側の視点から、テイクばかりではなくギブができるのではないかと思っています。そして、そういうポジティブなアプローチの方が聞き入れてもらえやすいでしょう

自己受容とは簡単に言うと”ありのままで生きること”です。ありのままのあなたを受け入れ、その通りに生きることです。よく引き合いに出される自己肯定との違いは、『できない自分』を認めるかどうかです。自己肯定の場合、できないであろうことも『私にはできる!絶対できる!』と言い聞かせ暗示をかけますが、自己受容は『今の私にはできない。だからどういう対応をしようか考えよう』というアプローチです。まずは『できない自分』を認めることから始めましょう。

アドラー心理学 勇気づけ|”自己受容”の本当の意味アドラー.com

定型発達者と発達障害者はギブ&テイクの関係になれないものだろうか

 

私は、思い込みかもしれませんが、自分の考え方は、発達障害クラスタの中でも少数派なのではないかと感じています。

 

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発達障害を持って産まれたからって卑屈にならなくてもいい

 ただ、誰もが恵まれた環境の中にいるわけではないし、だからこそ多くの人が苦しんでいる。

そんな中で、今の私が何を言っても、机上の空論や、価値観の押しつけ、言葉の暴力にしかならないのではないか。

 

「励ましたい」という気持ちは、上から目線のものではないのか。

 偉そうに。わたしが一体、なんぼのもんじゃーい。

 

少数派は黙っているべきなのか? 

発言には責任を持つべきで、何らかの影響力を持っている場合は尚更ですね(そういうご指摘を頂くことが増えた)。自分の発言が引き金になって、同じ属性の誰かに迷惑をかけてしまうことも往々にしてある。

 

 

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いやーーー、書かなきゃいいんですけどね。何してるんでしょうね。

「みんなで幸せになろうよ」(機動警察パトレイバーより)

なんだかこう書くと胡散くささMAXですけども。

経験上、「苦労比べ」を始めて、良い結果に終わった試しがない。

 

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「ADHDだから」というだけで人より劣っている証明にはならない

「発達障害だからって、みんながみんな天才ばかりじゃないんだ、凡才の立場も考えてくれ」というのも、定期的に話題にのぼります。

どんなに凡才に思えたって、適材適所でなら、能力を発揮することはできるかもしれない。第一、自分自身のことを把握する「セルフモニタリング能力」が乏しいのも、発達障碍者の傾向のひとつ。自分自身の魅力を、自分自身が一番分かっていないなんてこともざらにあるんだと思う。

 

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自分の能力を社会の中で発揮しようとした時、自分には何が出来て、何ができないのか、自己分析が必要になってくる。で、それはとても辛い作業だったりもする。

でも「何の取り柄もない発達障碍者だから」といって早々に社会貢献を諦めてしまうのも、自ら可能性を狭めてしまいそうで、勿体ないのではないかと感じる。

 

ま、そういう鼓舞は自分自身に向けてりゃいいだけの話、他人に主張した時点でただの余計なお世話なんですけどね。すいません。

 

 世間のイメージアップのために生きるのか?

発達障害者は何かと世間から誤解を受けがちです。

 

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聞きかじった知識ですみませんが、人間が「一緒くたにして考えがち」なのは、脳の省エネのためなんだそうです。誰もが無意識のうちにそうなってしまう可能性がある。そういう脳の省エネから、偏見が生まれる。

(例:これだから男は・これだから女は・これだから〇〇人は等)

誰ひとりとして、「総括した人間」になることはできない。

要するに何が言いたいのかって言うとね

言ってるね。

ウン、言ってる。

 

勝手にポジティブに生きてろよって話でね。

 

結局のとこ、自己責任において、自己満足のために、「自分がどうしたいか」「自分に出来ることは何か」という主観的な軸でしか動くことができないのかもしれない。

 困ったことに、自分なりに考えたことを黙っていられないのも、私の特性のひとつだったりもして。じゃあ、自分はこれからどうあるべきなのかと考えますと。

自他を認め、受容し、生きていこうとするならば無知でいてはいけないのだと痛感した次第です。

 

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 「こんな人もいるんだ」と知ってもらうには、一人一人が自己開示する以外に、方法なんてないんじゃなかろうか。

現場からは、以上です。

 

 

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