軽いノリで死にたくなる話
どうも。志乃です。
このタイトルを読んで、「あー、わかるわかる」と思う人と、「そんな風に思うなんてけしからん」と思う人と、「えっ、どういうこと?」と思う人と、様々いらっしゃると思います。
別に病んでいるとか、うつっぽいというわけでもないし、精神的に追い詰められているわけでもないと思うんだけど、「じゃがりこ食いてぇな~」とか「お酒飲みたいな~~」みたいなノリでふと、「あ~~、死にたいな~~」という気持ちが湧き上がる時がある。今回はそんな話を、軽めのノリで書きたいと思います。
- 身近にある日常の「死にたさ」
- 「死ぬのはいけない」のは誰もが分かっている
- 死にたい自分を生につなぎとめるもの
- 遺されたものの未来を思う
- 自分のために生きていない
- しんどい時は薬に頼るのもいい
- 楽に生きるって、なんなのか
身近にある日常の「死にたさ」
最近、日常の中の戦争をテーマにした映画「この世界の片隅に」が口コミから火がついて、話題になりました。
戦時中のような、生きるか死ぬかの時代に生きていたら、私もそんなことを思わず、何か変わっていたんでしょうか。平和だからこそ、恵まれているからこそ、こんなことを考えるのかな、と思う時もあります。
「生きたくっても生きられない人」にとっては、とても許し難い話なのだと思います。
「そんなこと思うなんていけないよ!」と言われても、ふとしたはずみに、じんわりと湧き上がって来てしまう、この気持ち。
何も、特別なことではない。
「死ぬのはいけない」のは誰もが分かっている
分かっているのに、この国で年間3万人も自殺者が出るのは何故なのか。
この「3万人」という数字も、それ以上をカウントできていないだけで、実際にはもっといるだろうと言われています。
現代には現代の、戦時中にはなかった、生きるか死ぬかの闘いがあるんでしょうね。
死にたい自分を生につなぎとめるもの
二日連続で寝坊してしまったとか、部屋が汚いとか、大事な人とケンカしてしまって拒絶されたとか、日常のちょっとした失敗や行き違いをきっかけに、「ああ、もういいかな。死にたいな」という気持ちになってしまう。生への執着が、あんまりないのかもしれない。
ちょっとしたことで死にたくなる反面、ちょっとしたことで持ち直したりもして。
仲直りできたり、好きなことをしたり、ベッドで眠っているうちに、だんだんどうでもよくなってきて、「あ~死んじゃおうかな~」と「もうちょっと頑張ってみるか~」のシーソーゲーム。
ふざけているとか、甘ったれていると思う人もいるだろう。
軽いノリで湧き上がってくる割に、いちいち本気だったりするのが困る。
「ちょっとしたこと」と自分では思っていても、ギリギリの崖っぷちに立っている時に背中を押すのは、そういう「ちょっとしたこと」だったりする。
遺されたものの未来を思う
わたしは遺族の立場になったこともあるので、遺された家族がどうなるか、よく分かっています。それはもう、悲惨なものです。
「自分のせいなのでは」とか、「何かできることはなかったか」とか、延々と考えて、自分を責めてしまう。きっと本人は、そんなこと望んでいないと分かっていても、いつまでも「死」の哀しみから離れられない。
人は一人では生きられない。自分を愛してくれた人が、自分を愛してくれた分だけ、深く悲しむことになる。
「私が死んだあと、みんな後悔すればいいんだ」と、愛や自分の存在価値を、死ぬことで確かめようとする人もいる。霊体になれると決まったわけでもないので、確かめる術もないのだが、それだけ孤独ということだろう。
(さくっと死にたいなー。でもなー。私が死んだあと、娘は、旦那はどうなるのかなー。まあ、私がいなきゃいないで何とかするんだろうけど、あんな思いはさせたくないなー。生きるかー。)
そんなノリ。
自分のために生きていない
死にたいけれど、誰かのために生きようと思う時。
つまりは「自分のため」に生きていない。
ただ、周囲への思いやりや、義務感で生きている。
それが悪いということでもなくて、そうやって「生かされている」。
自分の、好きなことは何か。
やっていて楽しいことは何か。
本当にやりたいことは何か。
遠慮して、我慢していることはないか。
好きなように生きるとは、どういうことなのか。
抑圧されている、自分の「願い」は何なのか。
「そんなわけにはいかない」と思う理由は、なんなのか。
それは本当に、「そんなわけにはいかない」ことなのか。
全てを叶えることは難しくても、ただ、自分のために、何かをやってみると、それだけで、ちょっと生きる気力が湧いてくるような気がします。
ただ、ゆっくり眠るとか、そんなことだっていい。
しんどい時は薬に頼るのもいい
私は一度、うつ病を経験しているので、「あっ、この感じ、このままだとヤバイな~」と、「懐かしい感覚」でアラームが立つ。
生存本能が薄まっているという時点で、正常な精神状態ではないことが考えられるので、おそらくもう、心療内科やメンタルクリニックの医師の出番なのかもしれない。
なんというか、この欲求、うつ状態とまではいかない、どんなに気分のいい時でも起こる、発作のようになっている。当たり前にあり過ぎて、この衝動的に湧き上がる気持ちと、どう付き合って、どう向き合っていくのか。
そんな気持ちの時に飲めるよう、頓服薬を処方してもらうのも、いいかもしれない。
楽に生きるって、なんなのか
人間は、社会の中でしか生きられない。その社会が今、多くの若者にとって、楽なものではない。個人のレベルでどうにかなる範囲を超えているのに、「自己責任」と言われ、政治にもあまり期待ができない。
社会や他人に絶望し、孤独を抱えて力尽きた者から倒れていく。
生きることは辛い。この生きづらさの緩和は、どうやったら叶うのか。そんなことばかり考えている気がする。
これアレね、本当に仏教徒にでもなろうかしらね。もうなっているような気もするんだよな。
この世界は、たぶん自分が思っているほどちっぽけでもないし、そんなに悪いものでもない。どんなに苦しくとも、今の自分に出来ることは何か、自分自身に問いかけながら生き抜くことに、きっと意味がある。
私はそう信じています。
その信念が揺らぐたび、軽いノリで死を考えてしまうけど、そうやって誤魔化し誤魔化し、生きている。
そうしているうちに、生きててよかったな~と思う瞬間も、確かにたくさん訪れている。
死にたいと思ってしまう自分の気持ちを、まずは認めてあげて、自分で自分を励まして、時々色んな人の力を借りて。他人との埋まらない溝に、孤独を感じて倒れそうになっても、ひとりぼっちで育ってきた人なんかいないってことを思い出して。
そうやって生きていきたいものです。
現場からは、以上です。
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