旧・望月志乃の ひびわれたまご

大人の発達障害(ADHD)当事者のイラストレーター望月志乃が、生きづらさや”楽”について考えるブログ。

なぜ「Take it easy」な育児は許されないのか

「ちゃんとしなさい」という曖昧な言葉に、いったいどれだけの人が苦しめられてきたんだろうなあ。

育児に限らず、「自分はこんなに頑張っているのに」という気持ちから、つい他者に対しても厳しくなってしまうことが、誰にでもあるように思います。

「みんなで楽になろうよ」ではなく、お互いをネガティブに指摘しあう「みんなでちゃんと(辛い思いを)しようよ」という風潮、なんとかならないものですかね。

「自分で自分を抑圧して我慢している人は、他人がのびのびやることを許すことができない」

それだけ、きっとみんな余裕がないんでしょうね。他者に寛容になることが、結果として一番自分が楽になれる方法だと思うんですが、わたし自身もついつい批判的になり、巡り巡って自分の首を締めてしまうことが多く、なかなか簡単なことではないように思います。

少し前、『2歳児の子育てを楽しむプロジェクト』の第一弾として開催された4つの子育て講座・ワークショップに、スタッフ側の人間として参加し、活動のお手伝いをさせていただきました。そこで得た知識が、子育て中の人のみならず、全ての日本人にとってとても大事なものに思えたので、少しですがシェアさせていただきます。

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4つの講座の中で、大学で幼児心理学・発達心理学を専門に教えていらっしゃる先生方や、 STAR parenting スターペアレンティング(虐待防止の観点から子どもの人権を守り、苦しむ親をも救うプログラム)や、コモンセンス・ペアレンティング プログラム(アメリカで開発された虐待防止のための育児スキルトレーニング法)の講師の方々から、親と子のための育児の仕方を教えていただいたのですが、どの先生も最後には必ず「まずお母さんが、落ち着いて子どもと向き合えるよう、余裕を持つことが一番大事です」と言ってらしたのが印象的でした。つまり、自分自身を大切にできないと、他者に優しく接することができないということなんだと思いました。

全国の約6,000人の母親にアンケート調査したところ、8割が「子どもをかわいく思えないことがある」と答え、9割が「育児がつらいことがある」と答えています。 家庭内の虐待の加害者として母親の数が多いという調査結果が出ていますが、母親をそこまで追い込んだ社会にこそ問題があるのだと考えています。
その原因としては
 ・母親が孤立しているため、悩みを話す相手がいない
 ・子どもとの密着が進み、過保護・過干渉になる
 ・少子化のため、育児のノウハウを身につけることなく親になる
 ・母性神話・3歳児神話に縛られる
など、母親に過剰な責任が課せられ、時間的・精神的余裕がないために、育児が息苦しいものになっているのです。
孤立した母親が育児を楽しむためには、父親はもちろん、家族や地域からの協力などさまざまな支援が必要なのです。

STAR Parentingの必要性 http://starparenting.jp/needs/needs.html

保健士も子育て支援センター職員も、カウンセラーも大学教授も、虐待防止センターの講師も小児科医も産婦人科医も、私がこれまで出会ったどの専門家も、「お母さん、もっと肩の力をぬいて気楽に子育てしてください」と言っているのに、ネットを見ていると「最近の親は」から始まる、「もっとしっかり躾をするべきだ」とか「迷惑をかけるな」とか「○○な奴は親になる資格がない」という、「もっとしっかりやれ」という厳しいご意見ばかりが飛び交っています。なんでなんでしょうか。

 

それは、彼らの立場が「被害者」だからかもしれません。

 

「最近の親」批判を語る時、大体の人が「こういうダメな親に、こういう嫌な目に遭わされた」という、被害者視点からの報告であることがほとんどです。だから自分の被害報告を、「子どもが可哀想」だという善意でパッケージングしたのち、「もっとしっかりしてくれ」と世間の親に要求をする。当然っちゃ当然の流れかもしれません。

 

いつでも子どもに対して「加害者になってしまうのでは」というリスクと向き合い、責任感や罪悪感を抱えながら子育てしている親側の視点と、子ども側に共感し、絶対的被害者の子ども側からの視点の違いなのかもなんて、たまに考えたりします。

 

スターペアレンティングの講師の方が、「どの親も必死である」と仰っていたのが、非常に印象的で、本当にその通りかもしれないと思いました。

親の心子知らずなんて言いますし、「そのへんの親」の気持ちなんて、尚更わかるわけもないのかもしれない。

時には、最近の親批判にかこつけて、完璧ではなかった自分の親への「もっとこうして欲しかった」という恨みを、そのへんの親へ勝手に重ねたりしているかもしれないし、「なんで自分ばっかり耐えなければならないんだ」という、抑圧されたストレスと不公平感からの八つ当たりだったりもするかもしれない。

 

そう考えると、よくある「最近の親」批判は、あんまり自分には関係がなくて、その人自身の問題であることが多いのかもしれない、なんて思うわけです。

 

非常識な親は、そりゃあ、いますよね。

 

私も、私なりに良識ある行動を心がけていますが、見る人から見たら、全然なっていない親の一人なんだろうと思います。できるなら迷惑もおかけしたくないので、出来る限りの努力と配慮はしていますが、いつ誰の目から見ても満足と納得をしていただけるような、「理想的な親」ぶるにも限界があるのが現実です。

 

なぜ、育児に対するハードルを、下げてはいけないんでしょうね。

どうして、気楽に育児することを、許してはもらえないんでしょうね。

他人を責めたり、責められたり。

ネットでは毎日のように、被害妄想のぶつかり合い。

みんな余裕がないなら、どうしたら余裕が生まれるんでしょうか。

まず、お互いを許し合うのが、一番の近道な気がしますが、そうできないのには、それだけの理由があるのも分かっているつもり。

 

「もっとしっかりしろ」と、自他を厳しく監視しあう風潮が、うつ病をはじめとするストレス起因の病気と、自殺する若者を量産している現状を作り上げているように思えてならないんです。

もっと適当に生きてはいけないんでしょうか。

適当に生きる他人を、赦すことはできないんでしょうか。

 

まあでも、どうせ「適当に生きようぜ!」と言い合ってハードルを下げたって、将来への不安から、自分で自分のハードルを高く設定してしまうのが、日本人気質ってやつな気もする。

そもそも、自分の思うように子育てする(生きる)のに、他人からの許可なんて必要ないんでしょうね。 

 

もっと楽に生きたい。

ダメ人間にも優しい社会になりますように。ダメ人間より。